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路上記.24「国民的人気漫画家となった やなせたかしさんと水木しげるさんの戦争体験、今も生きる多くのキャラクターたち」

 8月某日に筆者の天野は健康診断を受けに自宅近くの病院に出かけました。そこの待合室で5歳くらいの男の子が母親に寄り添うようにしながら、どこかで聞いたことのある歌を口ずさんでいたのです。歌は「手のひらを太陽に」でした。今も唄われているんだと思いました。
 
 どこかのテレビ番組が取り上げたのか、幼稚園で教えられたのかは分かりませんが、やはり、永遠の名曲なんですね。この歌は漫画家で絵本作家のやなせたかしさんが作詞したものです。今週も先週に引き続き戦争の話になります。今回は戦争に出兵した日本人の中でも、戦後は漫画家として子供たちに「勇気」と「希望」を与え続けた二人にスポットをあてます。
 
 やなせたかしさんと水木しげるさんです。やなせさんは「アンパンマン」、水木さんは「ゲゲゲの鬼太郎」が大人気となりましたので、知らない人はほとんどいないのではないかと思います。
「ゲゲゲの鬼太郎」は現在もフジテレビでアニメが放送されていますし、「アンパンマン」も多くのキャラクター商品が販売されています。晩年にはNHKスペシャルで水木さんが「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」(2007年)、やなせさんが「みんなの夢をまもるため~やなせたかし アンパンマン人生」(2014年)も放送されました。二人とも人気キャラクターを描くことで、現在も多くの子供たちに愛され続けています。
 
 しかし、この二人にはキャラクターたちからは想像もつかない過酷な戦争体験がありました。
 
 やなせたかしさんが1961年に作詞した「手のひらを太陽に」は大ヒット曲となりましたが、冒頭でお話ししたように、この歌は誕生して60年近くが経過した今でも、誰かによって唄われ続けているのです。
 「慟哭の海峡」(門田隆将著、角川書店)には、太平洋戦争末期に台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で、敵に撃沈され溺死した多くの日本兵の中で生き残った中嶋秀次さん生涯と、戦死したやなせたかしさんの弟・柳瀬千尋さん、そしてやなせさん一家の戦争体験やご自身の生きてきた道程が書かれています。なぜ、やなさせんが漫画「アンパンマン」を描くようになったか、なぜ漫画や絵本、歌などを通じて「生きる」ということが大事だと主張し続けたのか。それは、やなせさんの出生や生きざまにありました。
 
 父親はやなさせんが4歳の時、新聞記者の特派員記者として中国の厦門(あもい)に赴任中に風土病で死亡、母親が再婚して以降は、親戚の家に預けられました。そして41年に帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊に入隊し中国に出兵したのです。弟の千尋さんは2年後の43年に海軍の武山海兵団に入団。駆逐艦・呉竹の乗組員となりますが敵の魚雷を受け帰らぬ人となってしまいました。
 幼い頃に父親を亡くし、母親と別れ、たった一人の肉親となった弟も若くして戦死してしまったという現実を受けいれ、それでも決して弟さんのことを忘れなかったやなせさん。復員兵のような服装で常に自己犠牲を自分に強いる「アンパンマン」には、その弟さんへの思いなども含まれているのではないかと言われています。それほど、数少ない肉親の一人だった千尋さんを愛していました。
 
 一方で水木しげるさんは1943年にニューギニア戦線のラバウルに出兵し、爆撃で右手を失いましたが何とか生還し、戦後は生涯を通じて右腕一本で生活し漫画を描き続けてきました。
「ゲゲゲの鬼太郎」を見ても分かりますが、独特の世界観からも水木さんご本人が戦争でどんな体験をしてきたかが想像されます。もちろん、ご自身の漫画でも多くの戦争体験を描いています。
 
 「水木しげるの戦記選集」(宙出版)には、「セントジョージ岬~総員玉砕せよ~」」「硫黄島の白い旗」「地獄と天国」などが収められていますが、「セントジョージ岬~総員玉砕せよ~」では、生き残った日本兵を完全武装した日本兵が攻め殺害したことが描かれています。水木さんは漫画を描いている時には、戦死した兵士たちのことをよく思い出したと話していましたが、戦争のすさまじい現実を目の当たりにしてきたのです。
「地獄と天国」では左手を失った時の様子などが描かれていますが、残った右手も皮膚病に犯され何度も死線を彷徨いました。そんな過酷な体験が原点となり多くの漫画を生み続けてきたのです。
 
 やなせさんも水木さんも既に他界しましたが、お二人の作品やキャラクターは現在も生き続けています。
 
 

たにしの独り言20 「こんな経験は初めて、8月13日のゲリラ豪雨」

 8月13日の午後2時過ぎから発生した大きな雷の音は、水槽の中のたにしにも聞こえました。午後3時半過ぎにはOさんが来て、たにしに興奮気味でこう話し続けました。
 
 午後2時15分過ぎ、東京都内の空は急変しました。突然に暗くなり、雷があちこちで鳴り始めたのです。ほんの数分前まではいつもよりは暑いですが、曇りのお盆の一日でした。
 しかし、駅に着いた頃には雨が降り始め、ホームの電車が発車してから、あちこちで雷が鳴り始めました。あまりにも凄いので電車がどこかで停車するのかと思った程です。でも、電車は停車することなく目的の駅に到着しました。
 
 いつもなら駅付近の駐輪場に停車してある自転車で次の仕事場に向かうのですが、この雨と雷では自転車は無理と判断しました。自転車はおろか、駅には行き先に迷う多くの人々で埋まっていました。降り続く雨と止まらない雷で外に出られないのです。バスもタクシーも駅付近には停車していませんでした。というか確認もできないほど、雨と雷が凄くて外に出られませんでした。
 
 このままでは仕事に間に合わなくなるので、仕方なく、しかし気合いを入れて大雨と激しい雷の中を歩き始めました。目の前では雷が光り、激しい音を繰り返します。本当にいつ落ちてくるか分かりませんでした。目の前に激しい光が次々と乱反射するのです。戦争で爆撃の中を歩き続けているような感覚にとらわれました。雷が落ちたら死ぬのですから。それでもマンションや建物の軒下をくぐりながら、何とか約40分間を歩き続け、無事に目的地に到着したのです。
 本当にこんな経験は初めて、と何度もOさんはたにしの私に言い続けました。

「海に沈む空のように」第24回 昭雄が福井の仲間と音楽活動を再開へ

 土曜日の昼過ぎ、志賀昭雄は数日前に届いたばかりのギブソンのギターをケースに入れると、近くの駐車場に止めてあるアコードの後方座席に置いた。今日は午後一時からバンド「バード」のスタジオでの練習がある。
 
 昭雄は約十か月振りのバンド活動に胸が躍った。
父親と妹が死んでからは音楽活動している場合ではなかった。もう自分がギターなど弾くことも、歌を唄うことも、そして、ライブを行うことなどないと思ったのだ。いや、そんなことをやっている精神的余裕などなかった。だから、東京のバンドを脱退し、ギターも東京の実家に置いたままにしていた。

 まさか自分が福井に来て、音楽活動を再開することなど夢にも思わなかった。だから、仕事先でバンドに誘われた時は、本当に迷ったのだった。福井に来て自分が音楽活動をするとは全く考えていなかったのだから。オバマメガネの岸田典夫と谷由紀子から誘いを受けた時は、まさに夢のような気分がした。自分のやってきた音楽と、岸田たちの音楽活動に共通点があるかすら分からないなかで参加することを承諾してしまったが、実際に一緒に活動してみなければうまくいくかどうかは分からない。
 
 だから昭雄は最初は少し躊躇したが、岸田のもしうまくいかなければ、やめればいいと言われた瞬間に、気が軽くなり参加することを承諾したのだった。あくまでアマチュアバンドだから、それほどは真剣に考えなくていいことなのだと岸田は笑った。
 
 しかし、昭雄は東京ではアマチュアとはいえ、一週間に三度はスタジオに入り、ライブのための楽譜作りは睡眠時間を削って行ってきた。東京での活動は真剣そのものでもあったのだ。東京のバンド名は「スカイブルー」で学生時代に組んだバンドだった。メンバーは現在も全員が、コンピュータ会社や、新聞社、保険会社、商社などに勤務している。アマチュアとはいえ、月に一度は渋谷のライブハウスで多くのバンドが集まり開催されるライブには必ず参加し、多い時はほとんどの日曜日がライブ活動で埋められたりした。

 昭雄は父親が妹を殺害するという悲惨な現実に遭遇するまで、どちらかというと軽い大人だったかも知れない。自分が自殺を考えることなど全くなかったのだ。ましてや家族を持ってからは毎日が忙しくなり、そんなことを考える暇さえ全くなかったといっていい。あえて言えば家族にはあまりいい父親ではなかったと言えるだろう。

 妻の時子はそんな昭雄に不満を持つことはなかった。時子とは大学時代にライブを通じて知り合った仲なのだ。あくまで、今回の夫の父と妹が突然に死亡するという悲惨な出来事が起こるまでは、時子もどこかでいつまでも夢を追い続ける昭雄を許していたのだろう。
それがもう唄など歌っている場合ではなくなった。実際に昭雄の人生は四十歳を過ぎたばかりで終わってしまったかのようだった。東京を離れたことなどなかった男が転勤を指名された福井県など、今まで一度も考えたことがなかった。存在自体も知らなかったといっていい。

 そんな失敗を知らずに人生を歩んでこられたからこそ、ある意味ではあまり深く物事を考えることのない男だったのだ。比較的、恵まれた家庭に生まれ、自分も失敗することなく四十歳を過ぎるまで生きてきた。人生などこんなものだと思ってきた。しかし今、昭雄は人生の生きる意味を嫌というほど考えさせられ、福井という地方の県を知り、そこに住む人のことを知ろうとしている。もちろん、この地で再び自分がギターを演奏することになろうとは夢にも思わなかった。

 昭雄は車を福井駅前の音楽スタジオのあるビルの駐車場に停めた。ギターを後方の座席から取り出すと、入り口の方に歩き始めた。と、昭雄の目の前に一台のワゴン車が止まった。運転席から岸田典夫が手を振った。岸田は既に楽器をスタジオ内に持ち込んでいることから、軽い手荷物だけを持って車から降りてきた。

「林君が十分ほど遅れるって、さっき連絡がありました。何か家のはずせない用事があるらしいです」
 岸田が笑顔を見せた。
「谷さんはもうスタジオの中に来ているから」
 岸田が谷由紀子のライトブルーのヴィッツを指した。

「みんなも今日は久しぶりだから」
 エレベーターの中で岸田が言う。
「志賀さんは結構、キャリアをお持ちのようなので、自分たちがついていけるか心配ですわ」
「いや、自分も半年以上、ギターを弾いていませんでしたから。もう音楽はやらないでおこうって思っていたんですけど。まさか、こうしてお誘いいただくなんて想像もしていなかったですよ」
 エレベーターがスタジオのあるフロア地下二階で停止した。エレベーターのドアが開くとすぐにスタジオのドアがある。昭雄は志賀の後に続いた。

「お疲れさん」
 スタジオの中では由紀子がコーヒーを炒れている。
「お疲れさまです。志賀さんもコーヒー飲みますか」
「すみません。いただきます」
「今日は編曲なんかも決めて、打ち合わせを兼ねた会ですから」

 スタジオの打ち合わせ室の隅に昭雄はギターを置いた。
 「志賀さんの活動のことは何度かお聞きしたので、日本の曲については自分たちとはそれほど変わらないかなって感じもしています。ただ、自分たちは海外の曲は演奏していないし、人数も全然、少ないから。そ点は物足りないかも知れないですけど我慢してください」
 岸田が申し訳なさそうに言った。

「大丈夫ですよ、自分だってそんなにうまい方じゃないから。半年も演奏していないとうまくいくか心配ですよ。本当に毎日、練習しなきゃすぐに鈍っちゃうから。東京にいた頃は昼休みで社にいる時なんかも、練習していましたから」
「スポーツと同じで練習を怠るとダメなんですよね」
 由紀子が岸田と昭雄にコーヒーを渡した。

「すみません。遅れました」
 林公三がスタジオに入ってきた。
「用事は無事に済んだの?」
 岸田が聞く。
「ええ、息子の塾ことで。かみさんと揉めちゃって」
「塾か。いろいろ大変だね」
「まだ、自分は早いんじゃないかって思うんですけど、息子の友達なんかは通っている人も多いっていうから」

「林さんの息子さん、来年から中学生でしょ。最近は皆、塾に通う人も増えているからね」
 由紀子が林にもコーヒーを渡した。
「福井の小中学生の学力レベルは全国でも高い方やからね。皆、頑張るわけや」
 岸田が言った。
「本当や。自慢の一つやね。これは」
 由紀子がコーヒーを口にした。
「志賀さんも娘さんがいらっしゃるんでしょう?」
 由紀子が続ける。

「ええ、もうすぐ中学ですね。勉強の方も忙しくなる時期ですよ」
 昭雄の脳裏に陽花の笑顔が浮かんだ。
「今は別居だから大変ですね」
「家内に任せっぱなしだから」
 昭雄が少し口籠った。あまり家族のことは話したくないというのが本音でもあった。たぶん、ここにいるメンバーは自分の家族に何が起こったのかを把握していない。昭雄の家族のことを知っているのは、「ヒューネクスト」の昭雄の上司である小林明彦だけだ。できるなら家族のことはあまり話したくないというのが昭雄の本音だった。



路上記23.「特攻兵として9回出撃し帰還、戦争を闘い続けた佐々木友次さんの生涯」

 8月15日は終戦記念日です。日本は今年で戦後73年目を迎えます。毎年、この時期になると多くのメディアが戦争を特集します。戦争を経験していない世代が多くなる今日、戦争について考える大事な機会になるのです。
 
 戦争ではまだ20代そこそこの若者たちの多くが戦争に兵士として徴兵され、日本のために海外の兵士たちと闘いました。日本人の戦没者は310万人と言われますが、中には生きて生還した人たちも存在します。現在はほとんどの方が90歳以上で他界する人も増え、貴重な戦争体験を語る人たちも年々、少なくなっています。
 その中の一人である佐々木友次さんは、1944年の10月から46年の1月までフィリピン戦線で、特攻隊として戦争に参加し9回出撃して帰還した奇跡の人です(佐々木さんは3年前の2015年に92歳で他界しました)。
 
 佐々木さんは万朶隊(ばんだたい)という特攻隊に属していました。万朶隊はフィリピンのルソン島、レイテ島などで出撃を繰り返した特攻部隊です。1941年からの戦争で日本はフィリピンを占拠し1944年から2年に及ぶ戦闘は、フィリピン奪回を目指す連合軍と防衛する日本軍との間で行われました。フィリピンでの戦争では51万人の日本兵が死亡したといいますから(旧厚生省)、いかに生き残ることが困難だったかが分かります。
 
「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(鴻上尚史著 講談社現代新書)は、そんな佐々木さんの勇敢な戦争体験と貴重な生前最後のインタビューをまとめたノンフィクションです。
 戦時中、特攻隊には多くの将来を期待された若者たちが徴兵されました。学徒出陣として大学生たちも徴兵され、京都大学や慶応大学の学生から特攻兵として出撃していった者も多く存在したのです。現在、日本には徴兵制はありませんから、徴兵に出る人の気持ちが我々、戦後生まれの世代にはよく分からないかも知れません。
 しかし、隣国の韓国には現在も徴兵制度があり、18歳になると軍人として徴兵されることが義務となっています(ウイキペディア)。日本との芸能関係の交流も盛んな韓国の人気歌手や役者が、突然に徴兵されテレビから姿を消すということを身近に聞くことも多いですね。
 
 佐々木さんは特攻隊として徴兵されたのですから、本来は一度の出撃で死んでしまった筈なのです。しかし、それを断固拒否し敵を爆撃し大破させては帰還しました。特攻隊の義務は敵艦隊に突撃して死ぬことですから、そんな彼をよく褒める上官はいませんでした。でも、佐々木さんは「自分は絶対に死なない」と決めていました。日露戦争に出兵した父親の「人間はそう容易には死なない」という言葉をいつも忘れないでいたのです。
 
 凡人から見ると戦闘機に乗って爆撃を繰り返すだけでも大変なことだと思いますが、佐々木さんは、そんな戦闘を何度も繰り返しました。さすがにマニラ北東を飛行中に、機体の調子が悪くなり不時着し、あらためて操縦席がボロボロになったのを見た時は、自分が生きているのが不思議に感じたといいます。
 
 また、戦争では多くの兵士が食料不足により飢餓で死にましたが、佐々木さんもフィリピンではカエル、ヘビなど生きているものは何でも食べたそうです。同じくフィリピンでの戦争体験を描いた大岡昇平の「野火」には食べるものがなく、人肉を食べる狂った兵士が登場しますが、まさに佐々木さんもマラリアに苦しみながら同じように孤独と空腹に陥りました。まさに地上においても命懸けの毎日だったのです。
 
 現在は飽食の時代とも言われますが、我々はおのれの命を捨てるのが当然という特攻隊の中で、自分は絶対に死なないと決め、何度も危険に遭遇しながらも、勇敢に闘い続けた佐々木さんのような日本人が存在したことを決して忘れてはいけません。

たにしの独り言19 やっぱり、どうしても気になる猛暑の夏

 たにしの住む水槽の中はそうでもないんですが、外は依然と暑いらしいですね。
 Cさんは今日も暑い、暑いと嘆きます。
 8月6日に岐阜県下呂市で最高気温が41度になり、今年は7月23日に記録した埼玉県熊谷市の41.1度に次いで高い気温となりました。最高気温の計測は日陰で行われているそうですから、実際にはプラス3~4度になるかも知れません。つまり41度だと45度が最高気温になります。異常気象が原因で、ここ数年で一気に10度も気温が上昇したのです。
 
 世界的にみても今年は一段と猛暑になった[謙二1]ようで、アメリカのデスバレーでは7月に52度に達したようです。50度を超える気温は既に昨年にオーストラリアでも発生していますし、4月にはインドでも50度を超えたらしいですね。まったく、死人が続出しそうな話えです。
 
 このままでは日本も最高気温がぐんぐんと上がっていくばかりです。身近なところではいつもの夏に比べると蚊が少ないことに気づくヒトは多いんじゃないでしょうか。蚊は気温が高すぎると活動しないのです。蝉も夜に鳴く蝉が増えています。昼には道で蝉の死骸がころがっているのが目立つようです。熱中症で死亡するヒトも多いですね。もっと異常気象のさまざまな影響をヒトが想像することができていたら……と考るのは余計なおせっかいでしょうか。


プロフィール

あまのきょういち

Author:あまのきょういち
さまざな職を経たのち、4年前から早朝から夜遅くまで、軽作業の肉体労働をしながら生活しています。毎週に「路上記」と小説「海に沈む空のように」、コラム「たにしの独り言」を連載していきます。

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読んでいただきありがとうございます。
8月17日に、にほんブログ村の現代小説部門で5位にランクインしました。
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